関連データ・研究者

富山大学 大学院医学薬学研究部(医学) 生化学講座の井ノ口 馨 教授らは、ラットで、脳海馬の記憶容量は神経新生注1)により保たれていることを世界で初めて明らかにしました。


脳海馬が持つ記憶を獲得し蓄える能力は小さいにも関わらず、脳は記憶を獲得し続けて蓄えることができます。どのようにして脳がこの限界を超え、海馬を通して生涯新しいことを記憶し続けることができるのかは不明でした。


本研究グループは、ラットを用いて神経新生が鍵となることを発見しました。人為的に海馬の神経回路を飽和状態注2)にすると、新しい記憶を形成することができなくなりましたが、2週間経つと記憶獲得能力は回復しました。あらかじめ海馬の神経新生を阻害しておくと、2週間経っても記憶獲得能力は回復しませんでした。一方、回し車注3)で運動させ神経新生を促進させておくと、1週間で記憶獲得能は完全に回復しました。


以上より、神経新生は海馬の記憶容量が飽和しないように、古い記憶を海馬から消去して大脳皮質に転送することで、海馬の記憶容量を保っていることがわかりました。


神経新生はストレスや加齢に伴い低下し運動で亢進するため、今回の研究により、何故運動が加齢に伴う記憶力の低下予防に役立つのかを説明することができるようになりました。また、アルツハイマー病モデル動物では神経新生が低下していることから、海馬の神経新生は認知症に伴う記憶障害の予防の標的になると期待されます。


本研究は、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学)のアラム・ジャハンギール特命助教らと共同で行ったものです。


<研究の背景と経緯>

海馬は学習記憶に重要な脳領域の1つです。ヒトを含む多くの動物種において、記憶獲得後、ある種の記憶の想起は、最初は海馬の働きを必要としますが、時間経過に伴い徐々にその海馬依存性が減少します。生後脳の海馬神経新生がこの過程に関与していることが知られています。齧歯類においては、数週間後には海馬の働きを必要とせずに想起できるようになり、記憶の依存する脳領域が大脳皮質へと移行します。


大脳皮質に比べて海馬は非常に小さい脳領域で、記憶を蓄える能力は小さいと想定されます。ところが脳は生涯、海馬を通して新しい経験を記憶として蓄えることが可能です。


<研究の内容>

本研究では、海馬のシナプス伝達注4)を人為的に飽和させて、新たな記憶を獲得できなくなった状態を作り出し、その状態からの回復に神経新生が果たす役割を解析しました。


海馬の神経回路に繰り返し高頻度電気刺激(rHFS)を与え長期増強(LTP)注5)を繰り返し誘導し、神経回路を飽和状態にさせました。この状態で文脈性恐怖条件付け注6)を行っても、ラットは恐怖記憶を獲得することができませんでした。14 日後に恐怖条件付けを行うと恐怖記憶を形成することができ、また、LTP が元の状態に戻っていました(図1,対照群、図2,X 線非照射群)。この結果は、LTP の自然減衰に伴い神経回路が飽和状態から回復したために、新たに記憶を形成することができる状態に回復したことを示しています。


次に、海馬の神経新生が飽和状態からの回復に果たす役割を調べました。神経新生が低下したラットとして、頭部へのX線照射注7)処置をほどこしたラットを用い、海馬の神経新生が促進したラットとして、回し車のある環境で飼育したラットを用いました。


この実験により、以下のことが明らかになりました。

  1. X線照射処置を受けて海馬の神経新生がほぼ消失したラットでは、rHFS による回路の飽和状態からの回復が遅れており、14日後でも恐怖記憶を獲得することができず、また、LTP は減衰せずに飽和状態を保っていました(図1、図2)。
  2. 回し車のある環境で飼育され神経新生が促進したラットでは、rHFS による回路の飽和状態から 7 日後には LTP が元の状態に戻っていると同時に、恐怖記憶を獲得することができ、飽和状態からの回復が促進していました(図1、図3)。


結論

以上の結果より、日々新しい記憶が海馬に蓄えられるにもかかわらず、神経新生の働きにより古い記憶は大脳皮質に転送されるため、海馬の記憶容量は飽和することなく新しい記憶を蓄えることができることが明らかになりました。


<今後の展開>

今回の研究成果は成獣だが比較的若いラットを用いているため、今後は、正常な加齢に伴う記憶力低下の予防やアルツハイマー病を初めとする認知症の記憶障害等の改善に対する神経新生促進の効果を動物モデルを用いて検討するとともに、神経新生の促進を標的とした創薬研究等の展開が求められます。


<参考図>


図1 実験結果のまとめ(図2と図3のデータをまとめた、詳細は図2, 図3を参照)

A. 記憶獲得能の回復。記憶獲得能はすくみ反応で測定。

B. シナプス伝達の回復。150%以上でシナプス伝達が飽和状態になる。100%が通常の状態。神経新生の促進により神経回路は飽和状態から早く回復する(回し車群)のに対して、神経新生の阻害は回復を抑制した(X 線照射群)。横軸、rHFS による神経回路の飽和からの日数。



図2 X 線照射で神経新生を阻害すると、海馬の神経回路は飽和状態からの回復が抑制される

A. 実験の手順。rHFS で海馬の回路を飽和状態にし、14 日目に文脈性恐怖条件付け(学習)を行い、翌日に恐怖記憶が形成されていたかどうかを調べた(記憶テスト)。

B. 海馬の神経回路の飽和状態は 14 日目には元の状態に戻るが、神経新生が阻害されると飽和状態のままであった。1 日目:rHFS を与えた日。回路の飽和状態をシナプス伝達で示した。100%は通常の状態、150%は回路が飽和した状態を示す。

C. 記憶テスト時のすくみ反応を示す。X 線照射群の低いすくみ反応は、恐怖記憶を獲得できなかったことを示す。

D. それぞれの群の海馬の新生神経細胞の数を示す。X 線照射で神経新生は阻害された。

*は有意差を示す。



図3 回し車の運動で神経新生を促進すると海馬の神経回路は飽和状態からの回復が早くなる

A. 実験の手順。rHFS で海馬の回路を飽和状態にし、8日後に文脈性恐怖条件付け(学習)を行い、翌日に恐怖記憶が形成されていたかどうかを調べた(記憶テスト)。緑のバーは、ラットを回し車のある環境で飼育していた期間を示す。対照群は回し車のない環境で飼育した。

B. 海馬の神経回路の飽和状態は通常は7日目では元の状態に戻らないが、神経新生が促進されていると7日目に元の状態に戻った。1 日目:rHFS を与えた日。回路の飽和状態をシナプス伝達で示した。100%は通常の状態、150%は回路が飽和した状態を示す。

C. 記憶テスト時のすくみ反応を示す。回し車群の高いすくみ反応は、神経回路が飽和状態から完全に回復し恐怖記憶を獲得できたことを示す。対照群は記憶獲得能が部分的に回復していた。

D. それぞれの群の海馬の新生神経細胞の数を示す。回し車での運動により、海馬の神経新生が亢進していた。

*は有意差を示す。


<用語解説>

注1)神経新生

海馬では脳の発生が終了した大人においても、新しい神経細胞が絶え間なく生産され続けていることが、ヒト、サル、齧歯類を含む多くの動物種で分かっている。発達期には脳の細胞の元になる細胞(神経幹細胞)が多数分裂して数を増やし、神経細胞やグリア細胞に変化する(分化する)。この過程を「神経新生」と呼ぶ。脳が完成した成獣でも海馬では神経幹細胞は存在し、終生、新しい神経細胞が生産され続けていることが分かっているが、その程度は加齢とともに減少することも知られている。

注2)神経回路の飽和状態

神経回路のシナプス伝達(注4参照)は柔軟に変化することで、情報を処理している。繰り返し高頻度電気刺激(rHFS)で人為的に LTP(注5参照)を誘導し続けると、それ以上シナプス伝達効率を上昇させることができなくなり、回路は飽和状態となる。

注3)回し車

回し車のある飼育ケージでラットを飼い常時運動させると、通常の飼育ケージで飼育されたラットに比べて海馬の神経細胞の新生が促進される。回し車のある環境や様々な刺激がある豊富環境下の飼育は、生後脳の海馬の神経新生を促進する方法として良く用いられる。

注4)シナプス伝達

神経細胞はシナプスを通じて信号をやり取りしている。これをシナプス伝達と呼ぶ。シナプス伝達の効率は経験に応じて柔軟に変化(増強あるいは減弱)する。長期間にわたり増強した状態を LTP(注5参照)という。通常、シナプス伝達は上昇したり減弱したりしてある範囲の中に収まっており、飽和状態になることはない。

注5)長期増強(LTP)

シナプスの伝達効率は、シナプス前後の神経細胞の活動パターンにより、長期間にわたり増強したり(LTP)、減弱したりする。神経回路に100Hzの高頻度電気刺激(HFS)を与えると人為的にLTPを誘導することができる。生理的な条件下での LTP は記憶や学習の細胞レベルの基礎である。

注6)文脈性恐怖条件付け

ラットを電線が敷いてある箱の中に入れ、その電線から電気ショックを与えると、ラットはその箱が危険であることを覚え、再び同じ箱の中にラットを入れると、すくみ反応を示すようになる。箱とショックの連合記憶を忘れたラットは、同じ箱に入れられてもすくみ反応を示さない。すくみ反応を観察することで、恐怖記憶を覚えているか否かを判定することが出来る。文脈性恐怖条件付けは、海馬依存的な学習である。

注7)X 線照射

X 線は分裂中の細胞の DNA に作用して切断するため、成獣の頭部へ X 線照射すると分裂中の新生神経細胞を選択的に死滅させることができる。


<論文情報>

タイトル:

“Adult Neurogenesis Conserves Hippocampal Memory Capacity”

(生後の神経新生は海馬の記憶容量を保つ働きがある)

DOI:

10.1523/JNEUROSCI.2976-17.2018